「facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男」を読み終えて

映画ソーシャル・ネットワーク原作になった方のフェイスブック本を読み終えた。章が細かく区切ってあり、登場人物も少なく、とても読みやすく、後半は一気に読みきった。個人的にはFacebookにあまり興味はなく、今のところ利用もしていないんだけど、それを作ったマーク・ザッカーバーグという人物には以前から興味があり、その人物像を掴みたくて読んでみた。けど全然わかんなかった。以下ネタバレ注意。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男

ザッカーバーグに裏切られた人々

この物語は、主人公マーク・ザッカーバーグを中心にはしているものの、その周囲の人物、特にザッカーバーグに対して恨みを持っている人物から見たFacebookの成長物語、という感じ。まえがきにも「ザッカーバーグに何度も取材を申し込んだが全部断られた」と書いてあり、直接ザッカーバーグ本人から引き出した物語や逸話は無いに等しいと思われる。

そして、ウィンクルボス兄弟やエドゥアルド・サヴェリンなどからの視点でのザッカーバーグとFacebookが描かれているので、結果的にザッカーバーグに裏切られた人たちの後日談となっており、視点がフラットとは言えないだろう。

無表情・無関心・無愛想な男

そのような視点で語られた物語であるという前提で、そこから浮かび上がるマーク・ザッカーバーグの人物像は無表情・無関心・無愛想な男だった。他人からのアクションやコミュニケーションを基本的には軽く受け流し、よほど興味のある話でない限りリアクションは乏しく、自分のやりたいことに没頭している。ただし、彼にとってのスターやカリスマである人物、たとえばビル・ゲイツやナップスター創業者のショーン・パーカーの話には目を爛々と光らせて耳を傾ける。物語の後半でこう回想しているシーンがある。

結局のところ、フェイスブックはスタートからマークのアイデアなのだ。彼こそが、時間を費やし、作業し、寮の一室から始まったビジネスを企業にした人間なのだ。彼こそが、コードを作成し、サイトを立ち上げ、カリフォルニアに移り、休学し、資金を集めた人間なのだ。彼にとってフェイスブックは、最初の日から、マーク・ザッカーバーグひとりの作品だった。そして、それ以外の全員、ウィンクルボス兄弟やエドゥアルド、そしてショーン・パーカーでさえも、ただ彼にしがみついてきただけなのだ。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 (p.339)

マーク・ザッカーバーグの言動は、ある意味では普通というか、とても素直でストレートなリアクションなんだけど、やはりザッカーバーグに裏切られた人々からの視点だと、嫌な感じのヤツ、思いやりのないヤツ、冷酷非道なヤツ、という印象を植えつけられてしまう。

フェイスブック 若き天才の野望

そういう意味では、もうひとつのフェイスブック本ザッカーバーグに全面的に協力してもらって、独占取材して書かれたというこちらのほうが、ザッカーバーグの人物像を知るには適していたと言えるかもしれない。こちらも読んでみようと思う。

ギーク=変人

この本を読んで印象に残ったセンテンスは、冒頭に出てきたこれ。

できるだけ、ギーク(変人)に見られないようにしなくてはいけない。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男

上記の文章はパーティでのエドゥアルドの思考だけど、「ギーク」に「変人」とルビが振ってあって思わず笑ってしまった。この本を通して、「ギーク」は基本的に悪い意味で使われている。社交的でない、(コンピュータ)オタク気質な、ネガティブな感じを表現する単語として何度も出てくる。たしかに辞書でgeekをひくと、「ださい」「変わり者」「マニア」「おたく」などが出てくるが、良い意味っぽい「専門家」「プロ」なども出てくる。

日本においては、少なくともはてな界隈では、ギークは後者のほうの良い意味で使われている気がするけど、アメリカだと前者の場合が多いんだろうか? 「ギーク」は良い意味、「ナード」は悪い意味で使われるんじゃないかなぁと個人的には思ってたんだけど、どっちもネガティブな感じなんだろうか。

コードを書けない人間は無価値

ギークを変人扱いしている一方で、この本の登場人物でコードを書けない人間はだいたい敗北している。ウィンクルボス兄弟が、自分たちがコードを書けないがために、プログラマーであるザッカーバーグを誘って裏切られるシーンも、エドゥアルドがニューヨークに残り、ザッカーバーグらのプログラマー集団がシリコンバレーに引っ越して新フェイスブックを立ち上げるシーンも、この世界ではコードを書けない人間は無価値であり、いずれ敗北すると言っているように思えた。あ、ペイパル創業者みたいな資金提供してくれる大金持ちは除く。 以下は、この本に書かれていたことではないんだけど、ザッカーバーグ自身が実際に発した言葉である。

「ハッカー中心の文化を大事にしよう」といった話のうち、私が聞いた中でおそらく最も印象的だったのは、マーク・ザッカーバーグ(訳注: Facebook開発者)が2007年に起業スクールで言ったことだった。彼は「Facebookは早い時点から、人事やマーケティングのような、プログラミングが主な仕事ではない職種についても、プログラマーを採用すると決めました」と言ったのだ。

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この言葉を、本を読む前から知っていたので、余計にそう写ったのかもしれない。

Facebookは他と何が違うのか

マーク・ザッカーバーグの人物像に最も興味があるんだけど、もうひとつ、それほどではないにせよ、SNSの中で「なぜFacebookだけがこれほどまでに人気を集めるのか」はやはり興味がある。他との違いは何か? 日本ではまだそこまで流行ってない気がするけど、例えばMixiとは何が違うのか? それに対する回答になりそうな文章はここらへんだろうか。

フェイスブックの場合は、一応どこかで接点のある人に「友達になりましょう」と誘うのだ。相手のことを「よく知っている」というわけではないにせよ、一応、接点はある。たとえば、それはクラスメートだったり、友達の友達だったりする。参加するネットワーク、参加してくれと頼まれるネットワークは、必ず、あらかじめどこかで接点のある誰かがすでに加わっているネットワークなのだ。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 (p.159)

フェイスブックの根本にあるのは、マークが唯一心から愛しているものーーコンピュータ、彼の目の前で光を放つ、あの画面である。そしてマークのアイドル、ビル・ゲイツがあの画期的なソフトウェアによって、パーソナル・コンピュータを世間に一気に広めたように、フェイスブックはまさに革命的で、世界を変えるようなものになる。ソーシャル・ネットワーク全体で自由に情報交換を行う場を作り、フェイスブックにしかできない方法で世界をデジタル化するのである。 マークはそれが何であろうと、誰だろうとフェイスブックの邪魔はさせないだろう。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 (p.351)

本書を読めばわかるけど、大学内に存在する実際の社交クラブをザッカーバーグはインターネット上に構築した。そして、最初のうちは大学のメールアドレスを所有していないとログインできなかった。(周りから羨望のまなざしで見られる)現実世界のコミュニティをネット上で再構築するのがフェイスブックのきっかけであり、それは今も続いているように思われる。日本でも少し前に話題になったけど、実名で登録しないと除名するという強行なやり方は、その現れのようにも思える。そして、この現実世界の延長線上、もしくは現実世界そのものがフェイスブックというコンセプトが他とは一線を画しているのかなぁと。

訳者のあとがき

マーク・ザッカーバーグの人物像については、巻末の訳者のあとがきが本書を通してもっとも優れていたように思う。

彼の人物像は、誰が見るかでまったく変わるし、同じ人から見た印象でさえ、時間が経つと大きく変わっていってしまう。 だが、物語を通して読んで思うのは、マーク・ザッカーバーグという人間は結局、一人しかいない、ということだ。よくよく考えると、彼ははじめから終わりまで同じだし、誰に対しても同じ態度なのだ。実に一貫している。ひょっとすると、この一貫性が尋常でないために、かえって皆が自分のその時々の都合、心情によって勝手な解釈を加えてしまう、ということなのかもしれない。だから、彼はつかみどころのない、鵺のような人物にも見えるのだ。本当の彼は、いたってシンプルな人、自分の気持ち、考え方に極端に忠実で、それ以外には無関心、そういう人だという気がする。

facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 (p.365)

読み終えて同じ感想を持った。今時使われない死語かもだけど激しく同意ってやつ。